Sal. Sts., Jan Swierc and his companions
神の僕ヤン・スヴィエルチュと同志
ヤン・スヴィエルチュは上シレシア(チェコとポランドにまたがる地方)で、1877年04月29日に生まれた。父はマタイ、母はフランチォスカ・ロテルと言われた。トリノのヴァルサリチェが広く知られているので、高等の勉強のためにイタリアに行った。
サレジオ会に入会したくなって、イヴレアで修練期を過ごした。トリノで哲学と神学を終えて、1903年に、リシェルミ枢機卿の挙式で司祭叙階された。
ポランドに戻って、サレジオ会の学校で教育活動に着手した。修道者として優れた才能と徳を現した。オスヴィエチム(アウシュヴィッツ)の最初の院長となり、後からポランドの他の支部の院長を務めた。
管区評議会が設立されてからずっと、死去まで評議員を務めた。模範的な修道者会員で、サレジオ会とドン・ボスコを愛して、会の精神を完全に修めていることを証明した。特に目立った点はその慎重であった。最も厄介で最も微妙な問題はいつも彼に負かされた。
1941年05月23日に、クラークフ・デブニキの院長と主任司祭として、ゲスタポにあと数人の会員と一緒に逮捕され、クラークフの刑務所に閉じ込められた。
それからアウシュブィッツ収容所に移されて、1941年06月27日に、ドイツの一人の軍人から残酷な拷問を受け、殺された。わけは、まず、司祭だから、それからどうしてもイエスの御名を呼び続けるからであった。享年64歳であった、修道生活は42年を、司祭として38年を過ごした。殉教の上に、また聖人という名声に包まれて亡くなったと付け加えられる。
スヴィエルチェ神父と一緒に、1941か1942年にアウシュヴィッツで殉教した後八人
イグナティウス・アントノヴィッチ
イグナティウスは1890年に、ヴィオスラヴィチェで生まれた。1901-1904学年の間アウシュヴィッツのサレジオ高等学校で勉強した。1905年に入会して、1906年に初誓願を立てた。1916年にローマで叙階され、当分そこで働いてから、ポーランドに帰国した。クラークフにある神学校の学長となった。1941年05月23日に逮捕され、始めは刑務所に収容された。そこからアウシュヴィッツの収容所に移された。残酷に打たれて、収容所の病室に移されたが、07月21に亡くなった。
イグナティウス・ドビアッシュ
イグナテイウスは1880年にチョチョヴィチェで生まれた。1894年にトリノのサレジオ会の高等学校に入って、1898年に入会した。1900年に初誓願を立て、1908年にフォルリッゾで叙階された。母国に戻って、アウシュヴィッツ、プレミジル、ワルシャワと
クラークフで働いた。1941年05月23日に逮捕され、一ヶ月を刑務所で送ってから、アウシュヴィッツに移された。そこで、1941年06月27日に、砂利採砂場で殺された。
カロル・ゴルダ
カロルは1914年にティシーで生まれた。1927年から1931年までアウシュヴィッツのサレジオの高等学校で勉強した。1931年にサレジオ会に入会し、1932年に初誓願を立てた。1935年からローマで勉強して、1938年に叙階された。ポーランドに戻ってポズナンとアウシュヴィッツで働いた。ドイツ人の軍人の告白を聴いたという理由で処刑の宣告を受けて、1942年05月14日に処刑された。
フランシスコ・ハラジム
フランシスコは1885年にオシーニで生まれた。1901年からアウシュヴィッツのサレジオ会の高等学校で勉強した。1906年にサレジオ会に入会して、1907年にダサーワで初誓願を立てた。イタリアで勉強して、1915年に叙階された。ポーランドに戻った後、アウシュヴィッツ、クラークフなどの支部で働いて、1941年05月23日に逮捕され、刑務所で一ヶ月を送ってから、アウシュヴィッツの収容所に移された。1941年07月27日に、砂利採砂場で殺された。
フランシスコ・ミシカ
フランシスコは1898年12月05日に、(上シレシア)のスヴィエルチニェクで生まれた。アウシュヴィッツのサレジオ高等学校から卒業して、プレショフで修練期を送った。1923年にアウシュヴィッツで初誓願を立てた。そこからトリノのクロチェッタに行って神学を勉強した。1927年07月10日に叙階された。ポーランドに帰国して、始めはプレミジルの孤児院で、それからヴィルナの工業学校で働いた。1931年にヤチァゼクの院長となり、あとでラドの支部の院長となった。そこからダッハウの強制収容所に連れられて、1942年05月30日に、虐待のために亡くなった。
ルドビヒ・ムロッチェク
ルドビヒは1905年にケティで生まれた。1917年から1921年までアウシュビッツのサレジオ会高等学校で勉強して、修練期をクレチャ・ドルナで過ごし、1922年に初誓願を立てた。クラークフとプレミジルで勉強して、1933年に司祭に叙階された。ルオッフ、チェストチョウワ、クラークフなどの支部で働いて、1941年05月22日に逮捕され、アウシュビッツの収容所に送られた。調べのときにあまりにもひどく打たれて、病室に移されたが、1942年01月05日に亡くなった。
ヴロジミイエルツ・ジェンベック
ヴロジミイエルツは1883年にポレバ・ゼゴティで生まれた。1929年にチェルヴィンスクでサレジオ会に入会して、1930年に初誓願を立てた。クラークフで神学を勉強して、1934年に司祭に叙階された。先ずクラークフの管区長官で、それから神学校で働いて、またスカーワの支部で勤めた。1942年07月09日に逮捕され、先ずザコパーネ、それからタルノフ、そして最後にアウシュヴィッツに送られた。数回の尋問のときに受けた残酷のために1942年09月07日に亡くなった。
カジミエルチ・ウォイチェチョフスキー
カジミエルチは1904年に生まれた。1912年から1920年の間にクラークフとアウシュヴィッツのサレジオ会の学校で勉強した。修練期はクレチャ・ドルナで過ごして、初誓願をそこで1921年に立てた。1935年にクラークフで叙階された。サレジオ会の司祭としてアウシュヴィッツとクラークフで働いた。1941年05月23日に逮捕され、アウシュヴィッツの収容所に連行された。1941年06月27日に、砂利採砂場で働いているうちに殺された。