Sal. Sts. ラウラ・メオッツィ (1874-1951)
ラウラは1874年01月05日にフィレンツェで生まれた。父はアレッサンドロで、母はアンジェラ・マッツオーニと言い、家族は豊富で、貴族の生まれであった。父が大蔵省の公務員で、家族はローマに移転した。ラウラはドロテア会のシスターズの学校に通った。卒業してから医学のいくつかの課程を勉強した。指導司祭はサレジオ会員で、富を捨て、最も貧しい子供においてイエスに従うように勧めた。何回も夜通し祈ってから、1898年にラウラは扶助者聖母会に入会した。
23年間イタリア、主にシチリアで1921年まで働き、ポーランドに派遣される最初のシスターズのリーダーに任命された。イタリアにいた間に、シスター・ラウラの特徴が見えてきた。それはその母性であった。マドレ・マザレロと同様にサレジオ会的優しさとモルネーゼの単純に由来する甘美さの持ち主であった。そのためにポーランドの子供たちは「マテッチカ」、つまり、「母ちゃん」という呼び名を使った。
1922年二シスター・ラウラは、後五人のシスターズを連れて、ポーランドのローザニストックに出発した。そこで戦災孤児を収容する施設を設立することになっていた。シスターズは施設を整え、八十人の男女孤児をすぐに収容した。この子供たちを早く大きな家族に形成した。そのうちの最も不幸な子は、後で、こう言った「私は腸の大疾患があった。マテッチカは異常な関心を抱いて面倒を見てくださった。まったく彼女の息子であるかのようであった。皆の母であるかのように世話をしたけれども、知能の送れた子と悩んでいる子を特に注意した」。
政府からの監査人は、あまりにも良い印象を受けて、「後二百人の孤児を送ってあげる」と言った。政府も貴族たちは建物を提供して、聖母会のシスターズの数が増え、神様の祝福のおかげで、修練所と新しい孤児院を開いた。1922年から1940年にわたって、最初の院長で最初の管区長で、九つの施設を開き、新しいシスターズを110人を迎えた。
第二次大戦の間は、イタリアの領事は帰国を勧めたけれども、ポーランドに残った。農民の服装をして、サキシキの森の中の孤児院に残った。マドレ・マザレロが良く書いたような手紙を秘密に送って、ポーランドのシスターズを励ました。
終戦後、シスターズと104人の子供がヴィルモから特別な汽車に乗って、新ポーランドに戻るために出発が決まった。汽車に許可を得ていない子供と家族連れのゲリラ隊員も乗っているので、シスター・ラウラは銃殺刑の危険を冒している。根気強く祈り、聖母の恵みを得た。そのときから後十二箇所の支部を開いた。修練所が立て直され、どこでも活気、喜び、微笑が再び現れた。
シスターはだんだん疲れて、修道者たちに囲まれて、皆の祈りに支えられて、1951年08月30日に亡くなった。遺体はポグゼビエンに埋葬された。