Sal. Sts. Francesco Convertini (1898-1976)
フランシスコは1898年08月29日に、ブリンディジ県のチステルノの近くにあるマリネリ通りで生まれた。家族が非常に貧困で、フランシスコは子供の頃から働かなれればならなかった。18歳になって召集されて、第一次大戦で戦った。オーストリア軍に捕まえられて、強制収容された。終戦のときに釈放された。脳膜炎から回復して、財務警察に入隊するために、側近を務めていた隊長と一緒にトリノへ行った。聖母に対して信心深いものだったので、聖母の大聖堂で告解をした。
運よく、聴罪司祭はドン・ボスコの第二の伝記作者アマデイ神父であった。このドン・アンジェロはフランシスコの霊的指導者となった。ちょうどそのとき、インドに出発する十一人の宣教師の派遣式であった。ドン・アンジェロは「あなたも、宣教師になったらどうですか」と聞いた。フランシスコはイヴレアの宣教志願者の学校に入って、苦労して勉強に着手した。1927年12月07日に、ドン・リナルディの手から宣教師の十字架をいただいて、インドに出発した。
フランシスコは聖なるサレジオ会員から養成を受けた。シロンでフェランド神父の下で修練期を過ごし、ヴェンドラーメ神父の弟子であった。ドン・ボスコ伝のことをアマデイ神父から教わった。インドで使徒的宣教師の精神を身に着けた。ドン・ヴェンドラーメと協同作業をして、住民と親密になった。山村を訪れるために何キロも歩いて、家に入って老若を問わずイエス伝の話をした。哲学と神学の勉強を完了するのに苦労した。
1935年に司祭に叙階された。司教になったフェランド管区長はフランシスコをクリシュナガールの宣教地に派遣した。ベンガル語をあまりよく取得していなくても、クリシュナガールで彼よりも友人が多いものは一人もいなかった。また、無学の人も知識人も、金持ちも貧しい人も、霊的弟子となったものは非常に多かった。宣教師のうちで、ヒンズ教徒の家にも邪魔されずに入ることができる少人数の一人であった。
たゆみなく村から村へと歩き続けた。神父はとても良い人で、サレジオ会員としての優しさは住民の心を開き、彼を父、兄弟、友人にした。イスラム教徒、ヒンズ教徒、キリスト教徒、皆に何の区別もなく奉仕した。そのために、内的生活の師として、心の知恵の持ち主として愛され、尊敬された。生前すでに聖者の誉れが高かった。これはただ霊魂の救いに対する熱意のためではなく、彼に関して伝わる不思議な出来事の話もあった。
神父は扶助者聖母マリアの使徒であった。1976年02月11日に亡くなったのは、聖母に対する次の祈りを唱えながらであった。「聖母マリア、生きている間は聖母の気に触ることをしてはいません、今、私を助けてください」。大聖堂で遺体が安置されている間、人種も宗派も問わず、途切れることなく群集が殺到した。今大聖堂の庭に埋葬されている。
列福調査が1997/12/12に始まり、まだ終わっていない。