Joseph Vandor

Sal. Sts. Joseph Vandor (1909-1979)


 ヨセフは19091029日に、ハンガリーのドログ街で生まれた。親はセバスチァン・ヴェックとマリア・プクネルであった。学校の勉強はフランシスコ会の学校に通ってから、サレジオ会の修練院に入った。終生誓願を19320813日に宣誓した。神学の課程をトリノで勉強して、扶助者聖母の大聖堂で、1936 07 05日に叙階された。

 同1936年に、キューバに派遣されて、名をヴァンドルに変えた。1940年まで校長と施設所つき司祭を勤めた。その後、ドミニカ共和国のモカ街にある農業学校の校長となった。しかし、間もなくその学校はトルヒルョ大統領の政府に没収されて、神父はキューバに戻った。

 1943年に新支部が開かれ、ヴァンドル神父は修練長に任命された。1946年にその修練所が一時的に閉鎖され、神父はカマゲーにある工業高等学校の校長に選ばれた。

 1948年にサンティアゴ・デ・クーバの共同体の聴罪司祭を勤め、1951年にハバーナにある扶助者聖母会のシスターズの修練院の聴罪司祭を勤めた。

 19541209日に、当時まで受難会に管理されたカルメル山の聖母教会の係りとなった。同時に、もう一つの工業高等学校の設立を頼まれ、居場所もなかった。夜は、カプチン修道会の修道院に留めてもらい、昼は教会の建物の管理と、新学校の工事を監督した。学校が出来上がると、ヴァンドル神父は校長となった。その任務をすべての学校が文部省に没収される1961年まで果たした。それでカルメル山の聖母教会の係りになって、教区教会となったとき、主任司祭に任命された。

 ヴァンドル神父の道徳上の水準を計ることは簡単ではない。アントニオ・ディアス・ヴァスケスは「明るく光るランプ」と言う記事に、彼についてこう書いておいた「ヴイラ・クラーラの聖職者のうち、もっとも愛しやすく、もっとも献身的で、もっとも崇高な方であった」。その忍耐深い率直さ、真剣な献身と霊的指導者として、サレジオの聖フランシスコと好んで比べた。使徒的活力、貧しい青少年に対する愛、信仰心、落ち着いた愉快さ、誠心誠意のために聖ヨハネ・ボスコに準えた。それから、帰化したキューバに対する愛のために、愛国者ホセ・ルッ・ガバルィエーロに準えた。その国の文化を愛し、社会に明るい人で、教育者として優れた才能があった。彼自身が言うように、「誰でも教えることが出来るが、生きた福音でない人は、教育が出来ない」。

 病気になったとき、病室を訪れたり、控えめに止まって祈ったりした人たち、泣く婦人たち、若い人も、年寄りも、ヴァンドル神父がどれほど評価され、尊敬されたか、はっきりしたしるしであった。いろんな人が「聖人一人が亡くなった」と言うと、誰も不思議に思わなかった。

 その教会の一人の信徒はこう言った「人々がヴァンドル神父に示した愛の秘密は、その親切、その優しさ、そしてその完全な人当たりのよさにある」。