Augustin Arribat

Sal. Sts. Augustin Arribat (1879-1963)


 ヨセフ・アウグスティヌス・アルリバーは18791217日に、アヴェロン県のトレドゥで生まれた。家族は農民で、物質的に貧しかったが、キリスト教の価値に富んだものであつた。家族があまりにも貧困なので、アウグスティヌスは十八歳になって初めて中学校に入学ができた。それはマルセーユのサレジオ会のオラトリオでであった。ドン・ボスコのカリスマにアウグスティヌスも魅了を持ち、修練所に入りたいと申し出た。1902年にフランスはコーンブ首相の指導の下、三万人ほどの修道者を国外に追放した。サレジオ会の修練者たちはイタリアのアヴィルヤーナに移り、アウグスティヌスはスータンをドン・ルアからいただいた。二十五歳になってサレジオ会員となった。

 フランスに帰国して、偽装してサレジオ会員の活動を始めた。最初はマルセーユであったが、あとでラ・ナヴァールに派遣された。1912年に司祭に叙階された。第一次大戦の間、追放された修道者たちまでも、母国の防衛に徴兵された。アウグスティヌスは看護兵と担架係りを務めた。

 終戦後アルリバー神父はラ・ナヴァールで熱心に働き続ける。1926年まで青少年の宗教上の生活を促進した。それからニースに移って、1931年まで滞在した。今度ラ・ナヴァールの院長に任命され、同時に聖イシドーロス教会の主任司祭を務める。教会の信徒たちは彼を「谷の聖人」と名づけた。アウグスティヌスは優しい人で、そばにいることは楽しい。若者も大人も、大勢で告解しに行く。裁かれることなく、理解され、赦され、励まされると知っているからである。

 三年目が終わると、スイスのヴォー州のモルジュに派遣される。そこの人々の記憶によれば、彼は、一生涯実践し続けたドン・ボスコに倣った節制の精神が目立った。若者に神について話すと、若者たちは関心して聴いた、信用できる話だから。その後、三回にわたって、六年任期ずつの任命を受けた、最初はミラウ、二番目はヴィエムール、三番目はアヌシーの司教区にあるトノンであった。

 もっとも危険を伴う所はヴィエムールであろう。第二次大戦の間で、ドイツ軍の兵士たちは、神父がユダヤ人の子供を数人隠していた学校を没収した。また、サレジオ会の支部からあまり離れていない所で、スペイン人の共産党の闘志に出会うこともあった。彼らの前で脱帽したら、彼らはこのサレジオ会風の優しさを見て、自由に通してくれた。

 明るくてほほえんだ表情と使徒的バイタリティーはドン・ボスコがサレジオ会員に勧めたあのモットー、すなわち「仕事と節制」を思い出させた。

 1953年に、ラ・ナヴァールに戻って、アルリバー神父は余命をそこで送った。1963年に亡くなり、遺体はそこに埋葬された。

                   列福調査は1995/03/19 に始まり、

                         2002/12/01 に終わった。