Ignazio Stuchly

Sal. Sts. Ignazio Stuchly (1869-1953)


 イグナチオ・シトウクリはモラーヴィアのオロムークで、18691214日に生まれた。迫害が荒れ狂う中、家庭でも学校でも、キリスト教の価値観の行き渡る環境に育つという幸運があった。高等の教育課程をオーストリアのシレジア(チェコとポーランドにまたがった地方)で終了した。主の召し出しに応えるために、トリノのドン・ボスコのところに行くように勧められた。

 ドン・ルアはイグナチオをヴァルサリチェの短期大学に送り、成人召命として迎えられた。修練期が終わって、イヴレアで哲学を勉強して、農業学の学位も得た。ゴリツィア(イタリア北東部Trieste市の北にある市、ユーゴスラビアの国境に近い)に派遣され、教えながら神学を勉強した。いろんな務めをあまりにも熱心に果たしたため、司祭叙階のことを忘れてしまった程でした。一生涯はそうであったが、服従して待つ、32歳になってやっと叙階される。 彼の使う告解所がすぐに超満員となった。そこに賢明で慎重な司祭がいるといううわさがしたからであった。宣教地に行きたいと言うと、ドン・ルアは「あなたの宣教地は北の方にある」と答えた。1921年に、扶助者聖母の大聖堂の工事を監督するためにリュブリアナ(スロベニアの首都)に派遣された。戦争で困窮化された地方で、謙遜に会員を支え、大聖堂を完成するために施しを請う。1924年に大聖堂が出来上がった。

 トリノの近くにあるペローザ・アルジェンティーナという支部で、数年前から、母国にサレジオ会の事業を移植するために、若いチェコ人が収容されていた。会全体の少数のチェコ人なので、その支部の経営が委託された。

 1927年に、フリシタックの最初の支部を設立するためにチェコスロバキアに派遣された。1928年から 1934年までその支部の院長を務める。それからモラヴスカ・オストラーヴァの新支部の院長に任命される。66歳になって、イグナチオはもうチェコの会員のお父さんと言える。チェコズロバキアの管区長に任命されると、いつものように服従する。

 支配のカリスマの結果、その地方に召命が見事に増えていく。任務中、チェコで支部は十二箇所が設立され、会員の数はボヘミア人とモラヴィア人だけで270人に上り、宣教師は20人ほど外国で働いている。苦労の精神、ドン・ボスコがよく勧めた単純な信心、皆に対する優しさはその土地を肥沃にした。

 第二次大戦が勃発すると、会員の信仰と望徳を強め、最も弱い人に対して愛を尽くした。1948年に、任期を終えて、聴罪司祭としてフリシタックの支部に戻った。チェコでソ連からの迫害が始まり、シトゥクリ神父は自分が設立した事業の破壊を痛ましくも見た。病気になって、キリスト教的に迎えて、そのときも信仰心がくじけなかった。19530117日に亡くなった。

                    列福調査の始まり、1993/03/05

  終わり、2001/01/20