Sal. Sts. Costantino Vendrame (1893-1957)
コスタンティーノ・ヴェンドラーメは1893年08月27日に、トレヴィーゾ県のサン・マルティーノ・ディ・コルレ・ウンベルトで生まれた。親のピエトロとエレナ・フィオーリは彼に仕事と犠牲と、また、何よりも主を愛するように教えた。幼児のときからコスタンティーノは知恵と優しさとで目立った。
1913年にコスタンティーノはイヴレアのサレジオ会の修練所に入った。キオッジャ支部のオラトリオで少し経験を積んでから、徴兵義務を果たした。この体験は後の精神を鍛錬した。
1929年に司祭に叙階され、その十月に扶助者聖母の大聖堂で宣教師の十字架を受けた。31歳になってインドに出発した。シロンに着くや否や、当地の言語を習い始め、非常に早く取得した。
わずか五年で、彼に預けられた小教区の信徒の数は過度に増え、受洗者は四百人から千四百四十九人に上った。特にインドの北東部で働き、絶え間なく山村を訪れて、住民と子供に出会った。彼らと親しく交わって、人間同士の接触を探した。貧しい人、病気の人の家に入って、援助したり、彼らと話たり、その民話に耳を傾け、友達になってイエス伝の話をした。カージ族の文化で女性の役割の重大さを洞察した。「カージ人の使徒たち」と言う婦人会を創立して、貧しい人と子供の福音化を委託した。
ドン・ボスコのようにいつも最前線について、山村民の福音化にマスコミ機関を利用した。イエス伝のスライドを使い、映写が終わると、多くの人は洗礼を頼んだ。伝道師を養成し、彼らは共同体を福音化をして、神父を伴って旅行に出た。サレジオ会員として、オラトリオを設立して、継続管理をした。何百人もの子供を教育して、彼らの家族にも入って、伝道の活動を広めた。聖フランシスコ・ザヴィエルとか、聖パウロとかとたとえられるほどキリスト教をヒンズ教徒にも、イスラム教徒にも、プロテスタント教徒にも広めた。
非常に謙遜な人で、長く祈る人であった。神様と途切れない一致を保つようであった。イエスの御心に対する信心は深かった、証拠として二箇所の大聖堂を建てた、一つはマラワイで、もう一つはワヒャジェルで。
ドン・ボスコのように、扶助者聖母に対する信心も熱かった。いつも聖母の話をしていた。若い女子信心会を創立して、「レジオ・マリエ」と名づけた。その務めは貧しい人と病気の人を訪問し、そのために祈ることであった。最後までインドの北東部で働き、もう、修理できない古着みたいものになっていた。
1957年01月30日に、ディブルガールの病院で、聖人だと言う名声に包まれて亡くなった。
列福調査は2006年08月19日に始まった。